2023.03.26
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カテゴリ田植踊り
さて本日は、2023年3月21日に奥州市水沢佐倉河の梅泉寺にて行なわれた上幅庭田植踊保存会の彼岸供養奉納です。
こちらのお寺さんは水沢流通センターに近い佐倉河北部に位置する曹洞宗寺院です。
上幅庭田植踊の地元でもあり、多くの構成員が檀家さんであることから、代々踊り手の先祖供養の意味もこめて8年ほど前から彼岸奉納を行っているとのこと。
午後3時から法要が始まりました。

続いて境内にて庭田植踊りの奉納です。
その前に、上幅庭田植踊りの由来を水沢市教育委員会篇「無形文化財保存記録集 2 」から抜粋
「松本市治氏からの間き取りによれば、「語り伝えでは、今から七三〇年前(弘長二年)この庭田植踊を掃部長者に見せたところが、ここの『田植つこ』は他所の田植っこと違って、『めでためでた」で踊って入って来るのが大変良いということで、一番の折紙をつけられ、それを誇りにして今迄踊り伝え、継承されてきたということです。ただ、どこから入ってきて、誰が始めたかなどということはわからない。高山掃部長者は何せここの地元だから、それにくっ付けてるんでしょう」ということで、伝書、文書類は一切残っていない。」
いわゆる胆沢型の庭田植えである。踊り手は奴及び羯鼓と進行役に杁摺・弥十郎が入り、囃子方は太鼓に歌揚げの構成である。
この踊り組は正月以降に「つりはり」といって踊組の親戚(いどし)宅を回って歩くのだが、踊り組は総勢20名ほどになり、招いた家では踊組の人々に餅や酒やご祝儀を出さねばならなかったため「庭田植はいどし(親戚)泣かせ」と言われた。
また、小正月になれば「餅の晩」といって15,16,17日の3日続けて部落内をカセドリをして歩いたともいうが今は行われていない。

さて、奉納です。
〽 目出た目出たー の歌とともに庭入りして田植踊が始まります。
踊りの進行役の杁摺と弥十郎が次の演目などを口上する。

さて、胆沢型の田植踊といえば、菅江真澄がかすむ駒形の中で、胆沢の徳岡で投宿した際、正月18日の朝に田植踊りの一団が来るのを記述している。
「笛と鼓を打ち鳴らし、銭太鼓(檜曲に糸を十文字に引き渡して、銭を貫いたもの)という楽器を振っている。赤い鉢巻をしたのが「奴田植え」と言い、菅笠(すげがさ)と女の格好をしたのを「早乙女田植え」と言う。一団の宰領役をやん十郎と呼び、竿鳴子を杖につき、口上を言う。」
この当時のとおりとは違い、現在の胆沢では羯鼓踊りと奴踊りに弥十郎と杁摺りがついた形で、むしろこの記述にあるような銭太鼓や早乙女を伴うものは一関~仙台方面の田植踊りがこれに近い。
奴踊りの袢纏の背中に入梅の紋が入っています。入梅は暦の上では芒種の後の最初の壬〔みずのえ〕の日であり、陰陽五行説で「壬は水の気の強い性格」とされており、水と縁がある日ということで稲作にとって大事な水の恵を祈願しているしるしといえます。
上幅庭田植踊は2012年の全国青年大会で優秀賞に選ばれました。
今後の活動も期待します。

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2023.03.26 |
2023.02.03
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カテゴリ田植踊り
さて本日は、2022年12月25日に行なわれた黄金けせん!民俗芸能大祭part6から菅生田植踊りです。
由来について
「今から200年前、大船渡村下船渡の人が胆沢郡に赴いて踊りを習い覚え、近辺に披露した所、これを見た立根村菅生と下欠地域の若者が自分たちも習い覚えて踊ろうということで始まった。
昭和10年、大船渡市立根町の菅生と下欠の両地域の青荘年たちで組織された修養団体の「国旗会」が事業の一つとして明治時代に当地域の人達によって踊られていた田植踊りを復興させ伝承に取り組み、踊りの体験者長老3人から指導を受け、昭和11年2月1日田植踊り復興第一回発表を「菅生・下欠経済更生記念田植踊」の大きな幟を掲げ、村内を巡り踊り多くの観衆から大喝采を受けたと記録されています。
昭和12年2月には盛六郷を6日間に亘つて巡り踊っていますが、昭和13年から昭和22年まで戦時体制の影響や第二次世界大戦等で一時中断したが、昭和23年村内を巡り踊り再開を果たした。」
とあります。

この踊り手の構成は、踊りの進行と御祝儀の御礼などの□上を述べる馬子僧、羯鼓太鼓を手に歌いながら踊る太鼓打ち、歌を歌いながら田植えのしぐさを踊る早乙女、そして囃子を奏でる笛吹きで構成され、実際の田植えの様子を舞踊化した田囃子である。
胆沢田植踊の弥十郎と多少異相の感がある馬子僧

太鼓を打ちつつ踊る羯鼓

そして早乙女 仙台田植えの系統をひく装束となっている

道中囃子で始まり、「あさはか」、「おしょうがつ」、「くろかわ」、「かまくら」、「ゆうぐれ」、道中囃子で退場となる。
各踊りの前には杁を打ち鳴らしながら馬子僧が□上をあげるのだが、特徴的なのは口上の内容によって飯櫃や酒樽を肩に担いであるくことだ。口上は「代かき」、「えぶすり」、「投苗打」、「御田の神」、「御祝儀の御礼」、「間の狂言」、「最後のお喜び」である。
途中で馬子僧が田植えの褒美に大旦那様から祝儀を頂いたことを述べて、益々励んで田植えをなさんと早乙女衆に呼びかける

囃子唄であるが、胆沢直伝でとはあるが多少趣を異にしている。何となく御祝風でもあり、かつ念佛剣舞の太鼓唱歌同様に唄の節々の終わりを長く引く歌い方をする。これが実に神妙であり哀愁を帯びていて夕暮れの田園風景を彷彿とさせる。

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2023.02.03 |
2023.01.19
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カテゴリ田植踊り
さて本日は、2023年1月15日に行なわれた第41回藤沢町子ども郷土芸能発表会から徳田田植踊りです。
由来について
「明治初年より徳田地区の住民が、宮城県の涌谷・米川地区に田植えの出稼ぎに行き、豊作と厄払いの願いを込めて踊っていた田植踊を覚えて、それを徳田地区に伝えたのが始まりで、正月に豊作と厄払いの願いを込めて各家々を踊って回ったと言われています。」
とあります。
この米川地区での田植え踊りといえば狼河原田植え踊りが代表的かと思いますが、この狼河原田植え踊りは胆沢地方(奥州市胆沢区)から羯鼓太鼓の田植え踊りが伝わったと聞きます。
(ちなみに、この狼河原に近い西上沢というところには、奥州キリシタンの中心人物で、異教徒禁令に従わなかった後藤寿庵の墓碑が発見されているというのだから、胆沢の田植え踊りの伝承と縁の浅からぬ話に思えます。)
徳田田植踊りの特徴は、ステージで演じる際の田の神祭りですね。

戦後途絶えていた期間があったが、昭和52年に八沢青年会が有志を募って復活させ、徳田地域で継承されてきたということです。
現在残っている演目は次の通り。(藤沢町史より)
すりごみ、十七、うすがやから、年の初め、かまくら、朝霧、あさはか、草刈、そうりな十七、どこより、はね十七、夕暮れ、とーふんとや、向山、おいとま
徳田こども田植踊は、かつては旧徳田小学校で取り組んでいたが、2009年に藤沢小学校へ統合となったため、現在は徳田地区で継承に取り組んでいるということです。

踊りの合間合間に二人の弥十郎が口上を上げて、次の演目を紹介します。
最初は「年の初め」からです
〽 ヤンドヤーハイ お正月は おお目出度いや おお門松を迎えた
ヤンドヤーハイ 年の初め おお目出度いや おお門松を迎えた
ヤンドヤーハイ 白金のまるた桶で 福の水を迎えた
ヤンドヤーハイ なおしたりや うるしの上になおしたりや
ヤンドヤーハイ お祝いは しいげくけれど おつぼの松はそよめく
ヤンドヤーハイ 羽衣の袖の下で 少し名残を惜しんだ

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2023.01.19 |
2022.12.13
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カテゴリ田植踊り
さて本日は、2022年10月30日に行なわれた第56回胆沢郷土芸能まつりから出店田植踊で新田植之舞です。
その前に出店田植踊さんの由来について
文政7年(1824)旧小正月に堀切(現奥州市胆沢小山地区)横屋の田植踊の師匠、萬吉氏から若柳村(現奥州市胆沢若柳地区)出店中西屋敷の五郎七に伝授された。その後、終戦後の一時期(昭和30年代)に女田植として継承を守っていたが一時中断。
その後、再興され現在まで続いている」
ということで、現在の代表は谷木幹典さんです。

新田植之舞は「本田植の舞」に対するものということです。
「ほまづ田」といって、昔は大百姓の年寄りたちが自分だけの水田をもっていたが、その「ほまづ田」のための田植踊のことを「新田植之舞」としているようです。更に、さかのぼれば江戸時代本田に対して開墾された水田を新田と呼んで区別していました。この新田のための田植踊のことでもあります。

入り込みから整列が終わると
出店田植踊では、杁摺りのことを「歌読(えんぶり)」と呼んでいます
杁摺りが口上をあげます
〽 やれやれ弥十郎や これよりおわこう様のほまづ田とて五十枚の田を植えてくれや

それに呼応して弥十郎が掛け声をかけて踊りが始まります

族子(やっこ)は毛槍を振りつつ踊る 大名行列の奴の例えです

胆沢型田植え踊りの特徴といえるのが、踊り手の羯鼓と奴である。
羯鼓は、黄色の頬かむりに法被と裁付袴で、左手に羯鼓、右手に撥を持って、軽やかに羯鼓を打ちながら踊る。
昔は少年の役だったというが、正に田楽といった趣がある。

動画でどうぞ
胆沢型田植え踊りの特徴といえるのが、踊り手の羯鼓と奴である。
羯鼓は、黄色の頬かむりに法被と裁付袴で、左手に羯鼓、右手に撥を持って、軽やかに羯鼓を打ちながら踊る。
昔は少年の役だったというが、正に田楽といった趣がある。
テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術
2022.12.13 |
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