2023.09.24
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カテゴリシシ踊り
さて本日は、2023年9月17日に行なわれた登米秋まつりのにぎわいステージに出演した行山流佐沼鹿踊で三人舞です。
佐沼鹿踊の由来について
「大正12年発刊の「登米郡史」によると、現在の宮城県登米市追町と南方町、栗原市瀬峰の一部が佐沼郷と呼ばれていた江戸時代初期に、四組の鹿踊りの組があり、毎年交代で佐沼城(鹿ケ城)に踊りを奉納していたといいます。装束の幕には、津田家の紋所の開き扇と鱗、亘理家の紋所の九曜星があったことから、邑主に許された踊りであつたと推測されます。
昭和初期には姿を消し、長らく幻の郷土芸能となっていたものを、平成7年、あらためて(財)登米文化振興財団が調査に着手。翌年には、同じ流派と思われる宮城県本吉郡志津川町(現南三陸町)の水戸邊鹿子躍保存会の指導を受けて、復興への第一歩を踏み出しました。その時に指導を受けたメンバーで「佐沼鹿踊伝承会」を設立、会員を募りながら、稽古を重ねてきました。そして平成10年7月、演目のひとつ「二人舞」を市民の前で披露することができました。」
とあります。現在の佐沼鹿踊伝承会会長は大場勘市さんです。

佐沼鹿踊に関して、以下及川宏幸著「行山流鹿踊」より抜粋
「安永風土御用書上」には江戸期、佐沼では毎年7月15日に佐沼の城の主に鹿踊を献上するのが習いであったとある。
.北方泥内の山の神神社境内に安政3(1856)年の踊供養碑が残されている。踊り手は佐沼(迫町)と本郷(南方町)で一組を成して10名、北浦(迫町)と日向(迫町)で一組を成して10名、新田(迫町)単独一組で10名、藤沢(瀬峰町)単独一組で10名である。
まず最初に本郷(南方町)組が新町に来て祝い歌を歌い、新町、八日町で一踊りする。
その他の北浦(迫町)・日向(迫町)・新田(迫町)・藤沢(瀬峰町)の各組は、瀬峰街道の板橋口→板橋喰違→津島神社社頭→御札
場→羽黒神社と唄い踊り佐沼の町中を歩く。
次に佐沼の館で踊る前に、佐沼・本郷組10名+北浦・日向組10名の計20名の踊衆と、新田組10名十藤沢組10名の計20名の踊衆との2つに分かれ、両踊衆が隔年交替で城中で踊ることになる。
羽黒神社前から城の大門に向かい、城主の前で踊った後、夕方城主の墓所で墓踊りし終了となる。この踊のササラは頭上2尺を出てはならないとされていた。理由としては、佐沼の館の門が低いための制限だったとの口伝がある。
この他の踊りに長踊があり、頭上5,6尺の腰差しで踊ったという。これは城内で踊るのは許されなかった。ササラが短いため「ゴンポ鹿」とも呼ばれた。
特徴としては一組10人であつたこと。役割の名称が先生、発生代わり、大脇、側、女鹿となっており、他に見られない名称がみられること。そしてササラが短いことが上げあれる。
装束としては、幕にはなにがしの六郎と書いた紋巻鶴と波に兎、元領主津田家紋所の開き扇と鱗、新領主互理家の紋所九曜星。」

この日は新田小学校の児童3名も加わっての鹿踊。活気づいている佐沼鹿踊に期待しています。

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2023.09.24 |
2023.08.25
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カテゴリシシ踊り
さて本日は、2023年8月14日に行なわれた大船渡市日頃市の長安寺盂蘭盆会から盂蘭盆供養の様子についてです。
この日頃市の長安寺は、平安時代末期に気仙郡司金次郎丸為正(正善坊)創建と伝えられ、当初は天台の寺であったが明徳年間(1390年 - 1394年)の22世正光坊のときに浄土真宗に改宗したという。
その後に信仰篤い地元領主によって豪勢な山門が作られそうになったが、禁制のケヤキを使用したためと17.5mの高楼の二つの理由で、伊達藩より取り壊しを命じられ、現在の姿を留めている。
そんなことより、この日は盆の14日で檀家の皆さんが次々に墓参に訪れていました。

そのような中で、11頃に道太鼓で寺の参道を上がってくる。
豪勢な山門で門誉めをし、続いて寺の前にて回向を上げる。
行山流鹿踊の念仏回向は厳かな中にも物悲しい感じがするが、それを鹿たちが歌うので祖霊への何よりの供養という感じがする。
回向が終わると三廻りして終わる。

回向が終わると寺の住職への門かけとして鹿踊を一庭する。
ここで仰山流笹崎鹿踊の由来について
「大船渡市教育研究所編「郷土資料調査」第一集によると、明和五年八月九日、日頃市村坂本沢屋敷の理惣太なる者が陸前本吉郡南方清水川村(現南三陸町志津川)中左屋敷の弥惣次という人から七代の相伝を受け、大船渡町笹崎大草嶺家の婿養子となり、初めて同部落に伝えた。
その後同家において七之助、芳蔵、門太夫の四代を経て現在の中立笹崎一三氏(門太夫弟)に及んだという。
わたしの古いノートには本吉方面に出稼ぎに行っていた理惣太に伝授したのは四郎兵衛から七代目の師匠弥惣次だとあるが、この四郎兵衛は伊藤伴内持遠の門下であった。
弥惣次という名は舞川に伝わる巻物の「代々之先生之部」には出ていないが、本吉郡の入谷村の行山躍は同郡の清水川村に伝えられたのであろう。理惣太は相伝を持参して日頃市村坂本沢に婿にきて鹿踊を伝えたのだとも聞いている。
これを書くに当たって念のため笹崎一三氏に問い合わせたところ、坂本沢の理惣太が大船渡村字笹崎の笹崎家(家号は(大草嶺)に婿養子に来て、坂本沢とは別に笹崎鹿踊がおこり、笹崎家以外の中立としては、芳蔵ののち七蔵が幼かったため久作というのが一期踊ったという。現在は一三氏の後をついで日野昭氏が中立をつとめているとのことである。笹崎氏から写しを送って下すった相伝状は次の通りで、やはり弥惣次は四郎兵衛から七代目の師匠であった。」ということです。
笹崎鹿踊の特徴は、舞い込みの際の「ブッコミ」で、一頭一頭がそれぞれ大きな跳躍で複雑に飛びながら定位置に着く、いわばパフォーマンスが今の観衆の驚嘆を呼んでいる。格好いいからね!

続いて三人狂い

一踊りが終わった後で、長安寺の住職より御花が上がったので、それを受けての投げ草舞。

さて、この日は長安寺太鼓も地元なので太鼓演奏を奉納しました。
これが小さい幼児部太鼓や少年部太鼓、最後には大人の部の太鼓と披露され、地元での芸能披露の良さから「あれ見れ!おらいの孫だでば」などと地域に根ざした芸能を楽しむ空間が溢れていた。
盆の祭りはこうでなくてはね!

動画でどうぞ
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2023.08.25 |
2023.07.15
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カテゴリシシ踊り
さて本日は7月9日に遠野郷八幡宮にて行われた「幕系シシオドリ奉納」についてです。
幕系シシオドリというくくりは、岩手県内にある鹿踊、獅子躍と呼称される民族芸能のうち、踊り手自らが太鼓を打ち鳴らしながら踊る系統のものを「太鼓踊り系」、太鼓を持たずに鹿頭の前幕を手で打ち振りながら踊る系統のものを「幕踊り系」と総称することが通例になっている。
今回の合同奉納は、そういった幕踊り系のシシオドリ団体が、とあるきっかけで日頃目にすることがない互いの芸能を鑑賞し、かつ交流しようということで集結したということです。
その第1回目の会場として遠野郷八幡宮が選ばれ、当社の理解を得て合同奉納という運びになったということです。
これには遠野郷八幡宮の筆頭役獅子である長野獅子踊りの尽力がかかせないものであったと推察します。
この日集結したのは、盛岡市の澤目獅子踊り、宮古市川井の川内鹿踊、遠野市の長野獅子踊り、そして特別出演として紫波町の南日詰大神楽です。

最初に奉納の場を祓い清める南日詰大神楽から
南日詰太神楽の由来について「岩手の民俗芸能」(昭和57年刊行)より
「平泉藤原氏の亡びた後の頃、上方から慰問にと七軒町なる一団が盛岡に来た。 これは大神楽の事であるが、 津志田の七軒町に住んだ が為にこの名がつけられたという。
南部公が稗貫八重畑関口の北家 (分家)に行く途中、新堀六角の庄屋佐藤秀右ェ門忠兼なる人の所に休泊された折に教え残したのが、 大神楽であり、後に至って舞の手振りに工夫を加えて六角流大神楽と称 した。もともと武士階級の舞であった為かいかめしく荘厳な踊りである。この伝承を受けたのが南日詰の人達であった。明治の中頃から京田の高橋孫十郎氏等が先達となり復活を図り現在に至った。」ということです。

次に長野獅子踊り
由来について
「其の節東山奥玉の生れ、東山奥丸と云う人御所に奉公の時なり。此の御方記念として始めたる踊なり。この聖武天皇より宝山半月踊と云う名称を賜りて、故郷に帰りて再びはじめ、其れより伝えしは、東山大原長泉寺より興庵篤隆と云う和尚、長野西来院を開創せしが、この時東山五書と云う友を一人連れ来たり、慶長二年(一五九七)の歳東山五書長野に教え、子孫繁栄と踊り伝えた
るものなり。」
とあります。つまり慶長2年に東山大原から小友に来た興庵篤隆のお供の東山五書なる踊り名人が長野にしし踊りを伝承したということです。

次に澤目獅子踊り
澤目獅子踊の由来を示すものに堂前(庭元)の藤村家に伝わる巻物「獅子の図解」「仏像各種の図解」「守修行作法の巻」「和合宇多覚」等に示されているという。
わけても「正徳五稔乙未三月十二日越場邑右衛門、亨保十六年巳亥七月十八日天沼邑太夫万吉、上鹿妻北田邑次郎殿参る」という記述にその出自が伺われるとのこと。

最期に川内鹿踊
その由来について
「安永10年(1781)に仙台小松の庄に酒屋出稼ぎに行っていた喜惣太が習い覚えて帰ってきて伝えた」
とあります。
この仙台小松の庄がどこにあたるのかは不明です。
当時の仙台で行われていた鹿踊は八幡町鹿踊、宮町鹿踊、蒲ノ町鹿踊です。
果たして喜惣太が習い覚えたのはどこの鹿踊であったのか。
小松という地名で酒造というと、むしろ会津の小松獅子踊が.思い浮ぶのだが、こちらは三匹獅子である。

今回は初めての取り組みでしたが、沢山の観衆が集まり人気の高さがわかります。
次回は別の神社での奉納も目論んでいるとのことですので目が離せません。
動画でどうぞ
南日詰大神楽
長野獅子躍り
川内鹿踊
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2023.07.15 |
2023.06.28
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カテゴリシシ踊り
さて本日は、2023年6月18日に行なわれた大槌町郷土芸能祭から吉里吉里鹿子踊です。
由来について
「吉里吉里鹿子踊は別名「房州踊り」とも称し、 元禄年間に房州方面 から吉里吉里へ伝えられたと口伝されている。
前川善兵衛が房州に立ち寄り香取神宮を参拝した際、 そこに伝わる鹿子踊に 感銘を受け人夫に習得させたという説や三陸沖で難破した房州漁船の船乗り が伝授したという説などがある。
天照御祖神社の祭礼に神輿のお伴をして町内を練り歩く。渡御終了後、 地域を門付けする。」
踊りの種類は、神輿に供奉して歩く際の「通り・もどり」、門縁踊り、雌鹿子狂い、案山子いれは、霊呼(念仏踊り)などがある。

この日は三つの踊りを披露しました。
綱踊り

案山子いれは

雌鹿子狂い

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テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術
2023.06.28 |
2023.06.23
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カテゴリシシ踊り
さて本日は、2023年6月18日に行なわれた大槌町郷土芸能祭から臼澤鹿子踊です。
由来について「大槌の郷土芸能」より引用
「臼澤鹿子踊りの発祥は、現在の茨城、千葉近辺とされ、古くから農漁民によつて豊作豊漁、子孫繁栄、神仏礼拝など、生活に根ざした崇拝や娯楽として舞われていたものが原形とされている。
大槌への伝来は、1600年代、寛永の頃、当時は俵物と呼ばれた海産物の交易のため房州方面から出入りしていた船乗り達により伝えられたものである。
そのために当時は「房州踊り」と呼ばれ、主に時々の娯楽に庭踊りとして数十年にわたり継承された後、元禄14年8月14日、一の渡に鎮座していた小鎚神社への鰐口奉納を祝い、境内で儀式を正して舞つたのが小鎚神社での舞初めであつたとされている。この鰐口は現在も、小鎚神社の分社として祀られている臼澤の社に現存している。
この頃から発祥地と同様に神前での祈願、礼拝踊りが定着していったが踊り手法はまだ完成されたものではなく、更に後年、天明の頃、小鎚在の住人が諸国遍歴のおり、鹿島地方で偶然「房州踊り」に出会い、見覚えのある所作に加え、勇壮にして野趣豊かな踊りに魅せられ、そのまま長期間逗留し、舞、笛、太鼓を習い覚えて帰郷し未完成であつた鹿子踊りを完成させたと伝えられている。
また「しし踊り」と呼称されるようになつたのもこの時期以降であり、親子兄弟友達が仲良く踊るという意味から「鹿子踊り」と称し現在に継承されている。」
ということです。

幕踊系の獅子踊りの頭には、様々な種類の「たてもの」と呼ぶ飾りがあり、これにはそれぞれの地名や屋号、あるいは呪術的な象徴等が付けられます。
また、シシのタテガミはドロノキを鉋で薄く削って作る「カンナガラ」で厚く覆われ、これが獅子躍の聖獣の踊りを際立てている。

また、三陸沿岸や遠野の獅子踊では、獅子に相対するものとして刀振り(刀掛け)がつく。
これはかつては少年の役ということでしたが、これが伝承元の房州(千葉県)周辺の羯鼓舞では女の子がササラや長刀、鈴等を持って獅子とともに踊るようです。
刀を振るほうが邪気を祓う感じがするし、神楽との習合も想起されます。

この日は普段なかなか演じられることのない「柱がかり」が出されました

柱がかりは、幕踊り系では広く演ぜられるものです。野生の鹿がおのが角を磨くために樹木に角を擦りつけて切磋琢磨する本能を演技的に表現したものです。

次は雌鹿隠しです。
同じ幕系獅子躍でも浜の団体では欠かせない演目となっています
雌鹿を巡って役鹿と牡鹿が争う場面です
そこへ太鼓叩きが割って入って雌鹿争奪戦をけしかける
ここが一番の盛り上がりポイントですね。

動画でどうぞ
テーマ:伝統芸能 - ジャンル:学問・文化・芸術
2023.06.23 |
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