2021.08.30
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カテゴリ神社仏閣
さて本日は金ケ崎神社遷座祭からのつながりで、諏訪八景についてです。
金ケ崎神社は明治以前は諏訪神社と称していた。
古来より諏訪神社境内の東方の眺望は景勝の地として有名であり、眼下に北上川が滔々と流れ、遥か向こうには国見山などが望める場所で、多くの旅人歌人が訪れ歌を詠んできたという。
菅江真澄がこの諏訪神社を訪れたのは天明5年10月25日(1785)ということで、その際に「陸奥国膽澤郡須輪神社法楽八景和歌」を詠んでいる。
境内から東方に広がる景色を近江八景になぞらえて「釜淵の夜雨、片岡の夕照、北上川の帰帆、三箇尻の落雁、三五岳の秋月、八王子の晴嵐、早池峰の暮雪、国見山の晩鐘」として奉納した。

菅江真澄直筆の「陸奥国膽澤郡須輪神社法楽八景和歌」が金ケ崎神社宮司家に代々伝わっている。
このことについて奇しくも本日付け胆江日日新聞「真澄今昔」という連載記事に詳しく掲載された。

千葉周秋さんによると、菅江真澄に諏訪神社を案内し諏訪八景の和歌を詠むことを依頼したのが別当の羯摩院行光だったという。
修験者羯摩院、益々調べてみたくなった。
2021.08.30 |
2012.10.02
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カテゴリ神社仏閣
一昨日の日曜日に陸前高田市の月山神社で本吉太々法印神楽が奉納されるいうことで出かけた。
夜神楽が始まるまで時間があったので社務所にお邪魔して話を伺ったので、本日はその内容について書いてみる。
従って、肝心の神楽については明日以降に掲載いたします。
まづは、月山神社について由来を「岩手県神道青年会HP」より引用
正治二年(1200)、出羽国飽海郡月山神社より、荒木出雲の先祖月光院なる者により、当地に遷座される。
天明六年(1786)、羽黒山より月読神社分霊を証明する申渡書を交付され、以来、神霊の稜威とともに、長部村の総鎮守となる。
仙台藩主の敬神篤く、毎年七月十七日の大祭には幣帛が供進される、嘉例があった。
享保年間(1716~1739)伊達吉村公が封内巡視の途中、当社境内の桜の木にて憩い、国風一首を詠む。
寛永年中(1624~1644)検地書に、当社境内並びに西北の地を月山と記される。これにより、長部村開発よりの古社であるとが伺える。
明治五年(1872)江刺県治中長部村の村社となる。同8年(1875)町村合併により無格社となるが、氏子崇敬者の敬神の念厚く、大正13年(1924)再び村社となる。
昭和49年(1974)伊勢の神宮より御遷宮後の古材の譲渡を受けて、本殿を造営し、併せて、弊殿、参集殿、社務所を建設する大造営を行った。
近年では、神道墓地を造成して、氏子・崇敬者に提供している。

以下は当社禰宜の荒木真幸氏に伺った内容を参考に記す。(荒木氏は広田の黒崎神社、気仙町の今泉天満宮の宮司さんも務めておられます)
月山神社の建つこの地は北緯39度に位置し、真西に行くと山形県の鳥海山麓にある吹浦の大物忌神社がある。
そこの祭祀で太鼓を打つ役目をしていたのが荒木氏の祖先ということだ。
その後、月山(つきやま)神社の勧請をしながら雄勝・栗駒・平泉・室根と東へ辿り、太平洋岸の気仙の地にたどり着いたのでは。従って、神楽も鳥海山でのものから直接伝わったとのこと。
法印神楽については相当古くからあるが、現在の形になったのは五代前の荒木けんご時代に大沢の賀茂神社宮司と月山神社とで始めたとのこと。
以来盛衰があったが、伝承をしっかりとやろうということで気仙沼・本吉地方の神社仲間?で修成会を結成して、平貝の八雲神社の神職の指導を得て、神官(旧修験者の末裔)だけで修練・奉納上演を行う本吉代々神楽を結成し今日に続いている。
この、近在の法印だけで神楽組を構成し、互いの神社の例祭に奉納する「ヨエトリ神楽」は現在では非常に貴重な古い形を残したものとなっている。

伝える演目としては初矢、両矢、三天、岩戸開き、五矢、日本武、釣弓、魔王退治、二の矢、所望分、叢雲、蛭児の12番となっている。
舞の特徴としては「かいな(腕)指し」「乱聲」「翁の寅踏み」などにあるという。
神楽舞台は可搬式の掛け舞台で二間四方。舞台の周囲に萱の葉で作った「八重垣」を回していたが手数がかかるということで今年から梯子状の欄干を作成して代用し、正面にのみ御幣を立てている。
秋の例祭の宵宮は仲秋の名月(旧8月15日)におこなっている。
本吉代々法印神楽HPを参照ください。⇒http://houinkagura.kitanojinjya.jp/
テーマ:お祭り&行事 - ジャンル:地域情報
2012.10.02 |
2012.02.23
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カテゴリ神社仏閣
これは散歩していて参拝した神社、一ノ矢八坂神社である。
神社の由来は一ノ矢八坂神社様のHPより
「大昔九州地方からカラスが飛んできて田畑を荒らすので、これを退治しようと天に向かって矢を放ち、第一の矢で射落とした処に御鎮座したのが、この一ノ矢八坂神社(一ノ矢天王様)だと言われています。
カラスは足が三本あり玉を持っていたので、射落とされた地域を「玉取村」としたとされております。また現在でも矢を射たところは「天矢場」、玉を埋めた処は「玉塚」という地名で呼ばれております。」
ということである。

社殿に向かってご挨拶しようとしたが、鈴緒が見あたらない。
とにかく神名を称えて参拝する。

それにしても、何故天王社なのか。
社の由来によれば貞観年間の建立とあるが、
場所柄鹿島神ではないのか。
このあたりに時の為政者の変遷による崇神の摺り替えが窺われる。
ところで、社務所に「ニンニク守授与所」と張り紙がなされていた。
ニンニク? 何だそれ?
こういうことである。
同社のHPによると
「祭りの時に疫病除けに効力のあるニンニクが魔除けとして神社から頒布され、また境内にはニンニクの露店が立ち並ぶので、「ニンニク祭り」と呼ばれ広く一般に知られております。」
ここまではなるほどと得心する。
次に、
「ニンニクは、尊が朝鮮にお渡りになり採鉱・冶金・植林・医薬品等について学ばれた多くの技術や木種と共に、薬用の効力に優れた霊力があるものとしてお持ち帰りになられたもので、その後病気・病難祓除の強精剤として賞用されたと云う遺風が現在まで伝承されているものと信じられております。」
と、八坂=スサノウが朝鮮にお渡りになりとある。
そもそもスサノウ=武塔神は唐土~朝鮮半島経由で日本に伝来したのではなかったか。
私的には 鹿島(武甕)に後で武塔神が習合したものと捉えていたので、スサノウが朝鮮半島に渡るなどということはありえない。
むしろこの祭りの根源は朝鮮半島からの渡来人が関与したと考えたい。
事実天武持統朝には百済男女214名を武蔵に、高麗人56人を常陸へ配するなど、渡来人を関東などの遠隔地に配するようになったともある。
まあ、そんなことはどうでもいいが、ようするにニンニクを持ち込んだ人々がこいつは体に良いばかりでなく悪魔退散になるよと喧伝したことに始まったような気がする。
ニンニク守・・・欲しい!
平成24 年度の大祭日は、7月25日(水曜日)なそうである。お近くの方はどうぞ。
テーマ:神社仏閣 - ジャンル:学問・文化・芸術
2012.02.23 |
2012.02.21
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カテゴリ神社仏閣
散歩していてこんな石碑をみつけた。
「道陸神」とある。
WEBLIO三省堂 歴史民俗用語辞典によれば
読み方はドウロクジンで、道路の悪霊を防いで旅人を守護する神ということだ。
別名は、いわゆる道祖神で、塞の神とも岐の神とも呼ばれている。
普段はあまり目にすることがなかったので携帯で撮影したが、石碑の前には丁重に踏み石が連なり、水も添えられている。
往古はここは村境であったことが偲ばれる。

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2012.02.21 |