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2023.06.22 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ太神楽

安渡大神楽@2023大槌町郷土芸能祭

さて本日は、2023年6月18日に大槌町海づくり記念公園で行なわれた第3回岩手大槌サーモン祭りで併催された大槌町郷土芸能祭の様子をリポートします。
大槌のサーモン祭りといえば秋の一大イベントですが、この日「つかみ取り」に供されたのは大槌湾で海面養殖された大槌サーモン。鮭の漁獲量が年々減少している中で、町が漁業活性化を目指して取り組んでいるということです。
この日会場には70以上のグルメテントやキッチンカーが軒を連ねて大盛況でした。



といったところで大槌町郷土芸能祭です。この日は9団体が上演しました。

最初は会場のお膝元である安渡大神楽から。

安渡太神楽の由来については次の通り

安渡に伝わる大神楽の記録はないが、伝えられるところ第百二十一代孝明天皇の御代、時の代官の命により金崎市兵衛(鍛冶屋)宮澤又助、阿部川子々松(綱大棒)の三人が盛岡八幡宮付近(七軒町)においてこれが総てを習得して町民に伝えたものである。
当時は非常に盛んに行われておりましたが明治頃になって一時衰退した時期もあったが、こうした状態を憂慮した、当時、有志の覚醒により現在に至っている。またこの大神楽は古くからお祭りを対象に行われてきましたが、当時のお祭りと言っても大漁・大豊作の年に限り五年に一度、七年に一度しか行われず、又新築の建物等をこの権現により四辺を清められたとも言われ、これ等に限られて大神楽の熱も次第に薄れ全く衰退した時代もあったが根強く愛好された先人の熱意によって今日まで伝承されてきた。

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踊りの種類は、四方固め、通り(本調子)、獅子矢車、大神楽甚句、先踊り

祝い唄 〽 祝いの世をおし開くイザヤ神楽も舞い遊ぶ卜ウートゥートウー
        身は三尺の剣(ご幣)を持ち悪魔を払うてヨイワナ、トウートウートウー
        泰平世に神楽を舞い治めトウートウートウー

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やっと来た お先は舞いてその後は 当年中の悪魔祓い その後はおかめ様の一生笑い

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最後は大神楽甚句で舞い踊る

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動画でどうぞ


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2023.06.22 |

2022.12.29 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ太神楽

浪板大神楽@2022大槌産業まつり

さて本日は、2022年10月16日に行なわれた大槌産業まつりから浪板大神楽です。

その前に浪板大神楽の由来について

「浪板大神楽についての記録はありませんが、その由来は、天明の頃(1782年頃)内陸の腕利きの船大工が五代目前川善兵衛富能氏の御免石船、明神丸造船の際、浪板の宿に泊まり踊りを教えたものか、又、ある説によれば、1801年にキリシタン禁止令が強化され、宣教師が迫害を受け陸中の海岸にまで逃れて来た際、塩を煮る鍋造りの技能を教える傍踊り教えたという言い伝いも
あり判然としない。
寛政2年(1781年)の頃、二代目前川善兵衛富永氏三男善右工門氏が浪板大神楽に獅子頭を寄進したこと、文化7年2月(1810年)には六代目前川善兵衛富長氏が新造船、吉祥丸の船おろし式に浪板大神楽がお祝いに駆け付けたことなどが、前川善兵衛誌の中に記されており、又、元治年代の頃、大槌村柏崎長作氏(キリスト教牧師らしい)が中須賀と浪板大神楽の獅子頭を吉里吉里村北田宮内氏から原本を寄付され彫刻したことなどが判っており、今さらながら昔の大神楽講中の方々の熱意に唯々敬服するものであります。
又、言い伝えによりますと、この大神楽は、お祝いの席ばかりでなく昔は、3年か7年に一度しかない大槌村のお祭りには山越えして向川原、中須賀の大神楽の応援に出かけたそうで、寛政年代から吉里吉里天照御祖神社の丁印となり、戦時中は一時衰微した時もありましたが、愛好者の熱意で現在にいたっております。
獅子頭は8頭あり原木は篤志の方々の寄付によるものです。
獅子頭 寄贈者   寛政 2年 前川 善右工門 氏
           元治 元年 柏崎 長作氏
           明治 25年 台 留五郎 氏
原 本 寄贈者 昭和 29年 佐藤 秀夫 氏(4頭分)」

などとあります。



大槌、吉里吉里地区には太神楽が6つ現存しています。
それらの由来は諸説はあるようですが、おおきくは寛政年間に盛岡の七軒丁から金崎市兵衛と宮沢又助が習得し広めたというのが概略のようです。
当時の大槌には南部藩の代官所があり、今からは想像もつかないほど頻繁に盛岡との往来があったようで、物資の交易ばかりでなく人や文化の交流も盛んだったようです。

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演目の四本固めは四方固めともいい、門付けした家の庭の東西南北四辺の悪魔を祓う祈祷舞である。
江戸時代に武家屋敷に門付けする際は舞い手以外は裃を着たということです。

舞納めは

〽 やっときた お先は舞いて この後は
   当年中の悪魔祓い その後はオカメ様の一生笑い

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続いては余興の神楽甚句です。

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2022.12.29 |

2022.12.19 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ太神楽

津軽石新町太神楽@2022第5回津軽石郷土芸能祭

さて本日は、2022年12月4日に行なわれた第5回津軽石郷土芸能祭から津軽石新町太神楽です。

由来について当日プログラムより

「太神楽は、伊勢神宮の御師が御札配りの時行った芸能に端を発し、寄席芸として現在に継承さ れたものである。
津軽石新町の太神楽の始まりは、津軽石稲荷神社のお祭りがアンバ様の日に移ってからのことである。稲荷神社の祭りは旧4月9日で、この日に御輿が町内を廻るのが本来のものであった。 ところが、アンバ様という網場の祭りの8月16日に、神様がいないと祭りが盛り上がらないという理由と、祭りに豊年踊りをやりたいという声も出たので、8月16日に神様の御輿を出すように なった。大正末頃のことである。その御輿の先払いとして行われたのが新町太神楽である。御輿渡御には欠くことができない。太神楽がないと御輿が出せないというほど、重要な位置付けとさ れている。
今では旧暦の4月9日の本来の縁日には、近くの人たちが神社にお参りをし、旗を立てて、神事だけを行っている。
昭和3~4年頃のアンバ様のお祭りには、馬車を飾って舞台を作り、その中で囃子をならして、その前を行列して豊年踊りの一行が踊り歩いた。」ということです。



おかめ面をつけたのは「女舞」 太神楽につきものの天宇受賣命

赤い布のほっかむりは「ささら」 道化支度で長い棒ささらを擦って獅子をあやす

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そして道化面をつけたのは「籠しょい」 行列の先駆けをする 籠の中は御花なのか供米なのか、それともあんば様か

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2022.12.19 |

2022.09.24 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ太神楽

八谷崎太神楽@2022第16回浮牛城まつり

さて本日は、2022年8月11日に行なわれた第16回浮牛城まつりから八谷崎太神楽です。

その前に八谷崎太神楽について、「北上民俗芸能総覧」より抜粋

「明治の初期、旧福岡村水押集落(現北上市口内町)の昆野勇之助が和賀郡浮田(現花巻市東和町)から伝授され、その後明治40年頃、同氏は口内の草刈場、立花の吉内、広瀬の歌書集落に伝授した。八谷崎太神楽は、草刈場三代目の踊り組から昭和20年代の初めに指導を受けている。その後、後継者不足から長い間途絶えていたが、平成2年7月口内町民俗芸能保存会の呼びかけにより地域の有志で復活世話人会をつくり、地元に住む40数年前の二人の舞手の記憶を辿り、地域を上げて復活に取り組んだ」ということです。

そして、下の画像右端にいる口内町1区在住で八谷崎太神楽保存会代表の千田光子さんが、今年の6月に永年にわたり伝承指導、後継者育成への功労として北上市芸能協会から表彰されました。



八谷崎太神楽は、北上みちのく芸能まつりや口内町の浮牛城まつり、地区の火防祭、太子祭等の様々な場で上演している。

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保持演目は獅子舞、萬歳(現在中断中)、囃子舞(大黒舞、松の舞)がある

獅子舞の詞章は次の如し

内役 いせおし、ひらくや、いざ神楽舞い遊ぶ 土用は三尺の剣を持ちて悪魔祓うた よいわな、ひらくや オーヒッチョン
舞手 やっときた
内役 お先に立ったるは
舞手 七曜の星
内役 おあとは
舞手 九曜の星
内役 おのれとおのれは
舞手 お屋敷中の悪魔祓いをなーす 

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最後にめでたく松の舞

〽 ハアー めでたいや めでたいや めでたいことにとうりては
  鶴は千年栄える 亀は万年舞い遊ぶ
  浦島太郎は八百年 こら とうぼうさくは九千年
  三浦のおうすけ百六までも 長寿達者でおるからに
  サーサなにまいも かにまいも おっとりおいて とりおいて
  ここで 一つ覚えた 松の舞でも舞いましょか 松の舞ともはやしたり

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2022.09.24 |

2022.06.27 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ太神楽

南日詰太神楽「獅子舞、大黒舞、萬歳」@2022櫻山神社例大祭奉納

さて本日は、2022年6月4日に行なわれた櫻山神社例大祭奉納から南日詰太神楽で獅子舞、大黒舞、萬歳です。

南日詰太神楽の由来について「岩手の民俗芸能」(昭和57年刊行)より

「平泉藤原氏の亡びた後の頃、上方から慰問にと七軒町なる一団が盛岡に来た。 これは大神楽の事であるが、 津志田の七軒町に住んだ が為にこの名がつけられたという。
南部公が稗貫八重畑関口の北家 (分家)に行く途中、新堀六角の庄屋佐藤秀右ェ門忠兼なる人の所に休泊された折に教え残したのが、 大神楽であり、後に至って舞の手振りに工夫を加えて六角流大神楽と称 した。もともと武士階級の舞であった為かいかめしく荘厳な踊りである。この伝承を受けたのが南日詰の人達であった。明治の中頃から京田の高橋孫十郎氏等が先達となり復活を図り現在に至った。」

南日詰に伝えられたのは明治20年代と思われ、座元に保存されている幕には、明治24年、新堀から贈られた。
大神楽読本には明治27年と記されている。現在の組は、昭和48年に、高橋憲治郎氏、高橋正喜氏等の指導によって結成された。



七軒丁というのは、「甲斐国から南部氏下向の際に馬の口取りをしていた御駒太夫がお国中小芝居以下の見世物等の支配を被り」(内史略(3))とあるとおり、御駒太夫加藤京助の配下が江戸に出て諸芸を会得して帰り、盛岡城下で芸能を広げた集団のことである。

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藩政期の七軒丁の芸能について「御駒太夫京吉家古文」によれば、「御駒乗り」「春田打ち」「萬歳」「田植」「太神楽」「御獅子舞」等があり、他には三番叟や十二番の狂言などもあった。

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萬歳には「神力萬歳」「三河五萬歳」「大峯萬歳」などもあったという。

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2022.06.27 |

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祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

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