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2024.04.23 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

和賀大乗神楽「天王」@2024第22回和賀大乗神楽公演

さて本日は、2024年3月24日に行なわれた第22回和賀大乗神楽公演から和賀大乗神楽で天王です。

その前に、和賀大乗神楽の由来について

「口伝では、約600年前の正和4年(1315年)に慈覚大師の弟子である玉木明介が京都東山の聖護院の門跡として修験修行し、煤孫に帰郷後に貴徳院を開基。後に権大僧都満開山円光法師が創始した神楽とされ、「貴徳院法印神楽」とも呼ばれていました。
嘉永元年(1848年)に、宮城県遠田郡涌谷箆岳の無夷山箆峯寺(天台宗修験兼帯)から大乗神楽が伝承され、嘉永2年(1849年)に南笹間(現花巻市)の高法院を会場に大乗会を開催しました。3年後の嘉永5年には大乗仏教を基にした加持祈祷の舞として「大乗神楽」と改称ざその後、一時中断されていましたが慶応年間に佐藤寅次郎が貴徳院に伝承されていた神楽の復興を願い、妻の父である南笹間の八幡神社別当萬法院(十七世再中興法印)に師事して再興しました。
また、神楽の習練と継承を目指すため、江釣子の自性院や更木,の大福院と協力して発展に貢献すると共に、明治8年と33年に合同による大乗会を催行しています。その後自性院は神楽からは離れてしまっています。
煤孫の大乗神楽は佐藤寅次郎より高橋多喜蔵・武田三蔵・三田市太郎・武田博・鈴木秋尾、亀田正樹、現在の鈴木俊逸と続きます。現在では、元朝に煤孫の古舘神社に奉納し、別当の武田家で舞い始め儀礼を行うほか、毎年3月頃に地元の慶昌寺本堂に於いて「慶昌寺公演」を開催しています。大乗神楽全33演目の内、半数以上の演目を所持しています。」

ということで、現在の代表は鈴木俊逸さんです。



さて本日は天王。浜の法印神楽では五矢という名称で演ぜられる牛頭天王にまつわる演目です。
大乗神楽では、この演目は平神楽(普段上演される演目)では演じられず、大乗会の際にのみ舞う特別なものとされている。

天竺の原内国の第三王子として生まれた牛頭天王だが、牛のような顔で頭に角が生えていたため后に恵まれていなかった。
そこで南海の沙伽羅竜宮に頗梨采女を后に迎えるため旅をしていましたが、一夜の宿を求めた際に貧しい蘇民将来が一宿一飯の恩義をかけたので、宿を貸さなかった巨旦将来を滅ぼし、汝の子孫は障害なきよう誓願をかけたということです。
とここまでは山伏神楽の天王舞と同じ内容です。(それにしても言立が長い・・・)

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さて次に今帝が出る。
今帝(法印神楽では今貞)とは牛頭天王の臣下にて、本地は蛭子御前としている。

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牛頭天王が天空に八つの太陽が出て、水は熱湯になり、草木は枯れ、人は煩うこと限りなしとて、これを弓で射つことにした。

この筋立てのような話は、環太平洋の国々に古くからあり、複数の太陽が天に昇ったために暑くてたまらなかったので弓で射落としたとする説話は、いわゆる射日神話といわれている。
中国の説話では、「羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを、元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。 そこで、1つだけ残して9の太陽を射落とした。 これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる。」

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牛頭天王が各所の災いを取り除いたいことに感謝して今帝が牛頭天王に一献傾けつつ互いに歌を吟ずる。
ここの酒杯を交わす場面も浜神楽と同じです。

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かくて牛頭天王が四方と天に向けて矢を射る

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寅卯より巳午、申酉より亥子 最後に天上に矢を射る

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最後は御神楽にて舞納めます

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動画でどうぞ



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2024.04.23 |

2024.04.22 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

幸田神楽「五穀の舞」@2024第22回和賀大乗神楽公演

さて本日は、2024年3月24日に行なわれた第22回和賀大乗神楽公演から幸田神楽で五穀の舞です。

その前に幸田神楽の由来について花巻市史第三巻などから

「幸田神楽は幸田地区に鎮座する八雲神社の奉納神楽である。「幸田神楽本』によれば、その由来について藤原秀衛の三男泉三郎忠衡は、平泉藤原氏滅亡の際落ち延びられ、此の地に隠れ住まわれた。 矢沢地域の感慨用水を確保するために幸田川を塞ぎ止めて、溜池を築く工事をはじめたのであるが思うように工事が進まず思案の末、忠衡公が信仰している、祇園牛頭天王(八雲神社の祭神)を祀りて工事の無事完成を祈って神楽を奉納した。
また昔、幸田川には上と下に二つの大きな沼がありこの沼には、それぞれ、主(化け物)が住んでいた。この沼を埋め、田を作り堤を作った為に、主達は住みかを失い、その怒りを鎮めるために、堤の西北(乾)方に神楽場を定め神楽を奉納したところ、主達の怒りが鎮まり平和が戻ったといわれ、それ以来毎年神楽場で神楽を奉納したとあり、古い時代からこの地に神楽が存在していることを語っている」ということです。



さて五穀です。

早池峰神楽では五穀舞には二種類の舞があります。

天照皇大神自身が最初に出て舞う女五穀と
天照皇大神の指名を受けた天熊人が最初に出て舞う男五穀があります。

私は荒舞が大好きなので、この男五穀舞は大好物です。

山伏神楽の荒舞は太鼓、笛、鉦の早拍子が独特で、神(舞手)が登場する前から観る側も気持ちが高揚して荒々しい神の出現に期待を膨らませるのが楽しい。

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次いで天照皇大神と月読尊が出て対面し、天熊人に豊葦原の中津国へ行って保食神を訪ねて来いと命じます。

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天照皇大神の勅命により天熊人が保食神を検分に行き、その体内から五穀の種を持ち帰り天照皇大神に捧げます。

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神々が揃ったところで幕内で舎文がかかり、この世の五穀の恵みの由来を説きます。

天照皇大神はこれより青人草の糧として五穀が末永く稔るようにと、保食神を稲荷神にして五穀を守護するよう命じます

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かくて保食神より五穀の種を受け今に至ることを神諷にして千代の御神楽となり、最後は崩し舞で舞納めます。

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動画でどうぞ


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2024.04.22 |

2024.04.21 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

和賀大乗神楽「真似三番叟」@2024第22回和賀大乗神楽公演

さて本日は、2024年3月24日に行なわれた第22回和賀大乗神楽公演から和賀大乗神楽で真似三番叟です。

その前に、和賀大乗神楽の由来について

「口伝では、約600年前の正和4年(1315年)に慈覚大師の弟子である玉木明介が京都東山の聖護院の門跡として修験修行し、煤孫に帰郷後に貴徳院を開基。後に権大僧都満開山円光法師が創始した神楽とされ、「貴徳院法印神楽」とも呼ばれていました。
嘉永元年(1848年)に、宮城県遠田郡涌谷箆岳の無夷山箆峯寺(天台宗修験兼帯)から大乗神楽が伝承され、嘉永2年(1849年)に南笹間(現花巻市)の高法院を会場に大乗会を開催しました。3年後の嘉永5年には大乗仏教を基にした加持祈祷の舞として「大乗神楽」と改称ざその後、一時中断されていましたが慶応年間に佐藤寅次郎が貴徳院に伝承されていた神楽の復興を願い、妻の父である南笹間の八幡神社別当萬法院(十七世再中興法印)に師事して再興しました。
また、神楽の習練と継承を目指すため、江釣子の自性院や更木,の大福院と協力して発展に貢献すると共に、明治8年と33年に合同による大乗会を催行しています。その後自性院は神楽からは離れてしまっています。
煤孫の大乗神楽は佐藤寅次郎より高橋多喜蔵・武田三蔵・三田市太郎・武田博・鈴木秋尾、亀田正樹、現在の鈴木俊逸と続きます。現在では、元朝に煤孫の古舘神社に奉納し、別当の武田家で舞い始め儀礼を行うほか、毎年3月頃に地元の慶昌寺本堂に於いて「慶昌寺公演」を開催しています。大乗神楽全33演目の内、半数以上の演目を所持しています。」

ということで、現在の代表は鈴木俊逸さんです。



大乗神楽の三番叟は、なかなか見れそうで見れない演目です。
翁舞としていて神舞のうちに入っています。

幕入りは後ろ向きで三番叟が入ると神歌がかかります

〽 上を見たれば賀茂や桂川 下を見たれば近江川 中を見たれば愛染川とて流れける
   さればあたのはおさいおさよにとうよこうよ 昔のサルコはあまひょうしに構えた

大乗神楽の三番叟は四つ形目、四方を足で踏む型が多く取り入れられていて、滑稽な舞い振りでありながら反閇でしっかりと踏み鎮めるのが特徴と思われます。

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大乗神楽の三番叟にも追っかけと称する真似三番叟がつくことがありますが、森口多里著「岩手県民俗芸能誌」の「大乗神楽の三番叟」の項にはこう記してあります。

「二子大乗神楽の川辺宇介氏の若かった時代(大正年代)は村々に神楽のファンが多く、巡演の時は神楽組は「山伏だち」と呼ばれて熱狂的に歓迎されたそうである。恒例の巡演地をカスミと称し、北限は和賀郡沢内村貝沢、南限は湯田、和賀仙人、杉名沢、大荒沢であった。午後の本神楽には七ッ釜、魔王、女舞(の中から一種)普勝(または薬師)を演じ、夜の11時頃中入となる。
見物衆はこの中入を待って賑やかに弁当を開くのが楽しみであった。神楽組にも楽屋でご馳走が出る。中入は十二時半頃まで続く。
中入り後は三番、次いで手踊か茶番狂言をニ幕くらい、それから別に注文がなければ大乗の下と榊を出す。見物衆はこの榊だけは必ず見ることにしていた。最後に権現舞を舞う。
三番のときは、そのあとで見物衆の中から何人かが飛び出して三番叟の真似をして舞うて喝采された。これをマネサンバと呼んで慣例のようになっていた。」

当時の巡演の賑やかなようすがわかります。

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ところでこの真似三番叟、胴取としばし狂言を交わして客を沸かせるわけだが、この日は客席から若者二人を引っ張り出して、三番叟の踊りを教えるが、二人は真似三番叟の意に反して踊り始めるが・・・あとは動画でご確認ください。

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動画でどうぞ

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2024.04.21 |

2024.04.20 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

幸田神楽「岩戸開きの舞」@2024第22回和賀大乗神楽公演

さて本日は、2024年3月24日に行なわれた第22回和賀大乗神楽公演から幸田神楽で岩戸開きの舞です。

その前に幸田神楽の由来について

「幸田神楽は幸田地区に鎮座する八雲神社の奉納神楽である。「幸田神楽本」によれば、その由来について藤原秀衛の三男泉三郎忠衡は、平泉藤原氏滅亡の際落ち延びられ、此の地に隠れ住まわれた。 矢沢地域の灌漑用水を確保するために幸田川を塞ぎ止めて、溜池を築く工事をはじめたのであるが思うように工事が進まず思案の末、忠衡公が信仰している、祇園牛頭天王(八雲神社の祭神)を祀りて工事の無事完成を祈って神楽を奉納した。
また昔、幸田川には上と下に二つの大きな沼がありこの沼には、それぞれ、主(化け物)が住んでいた。この沼を埋め、田を作り堤を作った為に、主達は住みかを失い、その怒りを鎮めるために、堤の西北(乾)方に神楽場を定め神楽を奉納したところ、主達の怒りが鎮まり平和が戻ったといわれ、それ以来毎年神楽場で神楽を奉納したとあり、古い時代からこの地に神楽が存在していることを語っている。その後、天保年間に早池峰岳神楽を習得して現在に至る」ということです。



幕出し唄

 〽  ヨーホーエー はぁ岩戸出し ヨーイサー

それに応えて天児屋根命が出て翁の舞となる

一舞した後に翁は幕前に立ち 幕内から舎文がかかり

〽 おうのう静まり給え 千代の御神楽の由来を詳しく尋ぬるに・・・

と長く続くが、本田安次はこの岩戸開きの内容は岩戸を開くドキュメントよりも、御神楽の由来を導くためのものとしている。
確かに天児屋根命が由来を説くのに演目の約4分の3程の時間を費やしていて、後の岩戸が開く場面は一瞬で終わる。
これは神楽として仕組まれる以前より語り物として岩戸神話が口碑に伝えられてきたことを示す。

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ともあれ、天児屋根命の呼びかけに応じて手力雄命が出る

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神々のはかりごとにより天之鈿女命が出て天岩戸の前で天照皇大神を誘いだすべく優をなす。

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舎文とともに幕を開ける

〽  天の岩戸ひらくれば~

天照皇大神と月読尊が出て千代の御神楽となります

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面を取り装束を直して崩し舞にて舞納めます

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2024.04.20 |

2024.04.19 | Comments(0) | Trackback(0) | カテゴリ神楽

和賀大乗神楽「七五三切」@2024第22回和賀大乗神楽公演



さて本日は、2024年3月24日に行なわれた第22回和賀大乗神楽公演から和賀大乗神楽で七五三切です。

その前に、和賀大乗神楽の由来について

「口伝では、約600年前の正和4年(1315年)に慈覚大師の弟子である玉木明介が京都東山の聖護院の門跡として修験修行し、煤孫に帰郷後に貴徳院を開基。後に権大僧都満開山円光法師が創始した神楽とされ、「貴徳院法印神楽」とも呼ばれていました。
嘉永元年(1848年)に、宮城県遠田郡涌谷箆岳の無夷山箆峯寺(天台宗修験兼帯)から大乗神楽が伝承され、嘉永2年(1849年)に南笹間(現花巻市)の高法院を会場に大乗会を開催しました。3年後の嘉永5年には大乗仏教を基にした加持祈祷の舞として「大乗神楽」と改称ざその後、一時中断されていましたが慶応年間に佐藤寅次郎が貴徳院に伝承されていた神楽の復興を願い、妻の父である南笹間の八幡神社別当萬法院(十七世再中興法印)に師事して再興しました。
また、神楽の習練と継承を目指すため、江釣子の自性院や更木,の大福院と協力して発展に貢献すると共に、明治8年と33年に合同による大乗会を催行しています。その後自性院は神楽からは離れてしまっています。
煤孫の大乗神楽は佐藤寅次郎より高橋多喜蔵・武田三蔵・三田市太郎・武田博・鈴木秋尾、亀田正樹、現在の鈴木俊逸と続きます。現在では、元朝に煤孫の古舘神社に奉納し、別当の武田家で舞い始め儀礼を行うほか、毎年3月頃に地元の慶昌寺本堂に於いて「慶昌寺公演」を開催しています。大乗神楽全33演目の内、半数以上の演目を所持しています。」

ということで、現在の代表は鈴木俊逸さんです。

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七五三切舞は采をかぶった直面の三人の舞で、扇・錫杖・帯刀で舞います。

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解説では
「天の岩戸の前に張った注連縄を切る歳殺神・黄幡神・豹尾神の三神の舞いとされ、本地仏は、歳殺神が千手観音、黄幡神は胎蔵界大日如来、豹尾神は金剛界大日如来とされます。
三人が抜刀して太刀くぐりをします。
この神達は、牛頭天王の八人の子供の神で八方位の吉凶神です。
この様に慈悲深く智慧ある仏達が、凶神の姿で天の岩戸の注連縄を切り落とす設定と考えられます。」

とあります。

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最後は一人残って散らしを舞います。このへんの様式は浜の法印神楽と同じで、太刀御神楽で終わるということです。

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最後に刀を床に置いて印を結んで幕に入ります。

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2024.04.19 |

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祭・・・それは祈り、畏れ、そして縋り付くばかりの信仰、神人共生の歓びの象徴。さて、明日のエネルギーの糧を求めに彷徨おう。

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